代表の思い

 

「塗装屋」は大嫌いでした……。
「塗装屋」は大嫌いでした……。

 

『何で塗装屋さんになったんですか?』

私がお客さまから聞かれる質問の中で、もっとも多い質問です。まずはその訳からお話しします。

私は亡き父より会社を引き継いだ2代目社長ですが、最初から跡を継ごうと思っていたわけではありません。

むしろ、『塗装屋』は嫌いでした。

父がここ熊谷市で塗装店を開業したのが、昭和48年。それ以来、いわゆる『町のペンキ屋さん』として、来る日も来る日も全身ペンキと汗にまみれながら、父と母の2人3脚で、私と弟を育て上げてくれました。

今だから素直に感謝の気持ちを言えますが、そんなペンキまみれの両親の姿は、子供のころの私からは決してあこがれの対象には成り得ませんでした。

現場でシンナー中毒になって救急車で病院に運ばれる父。

私の記憶だけでも3回はこんなことがありました。『普通の人なら死んでたね!』医者に言われた一言は、今でも忘れられません。

また当時は、父の仕事も建設業者の下請け業務ばかりで、自分の意に沿わない仕事も、

お客様のためにならないとわかっている仕事でも、否応なしに請け負って仕事をこなすようなことも多々ありました。

しかも、命がけでがむしゃらに働いても、団地暮らしの決して裕福と言えない家庭。ですから、中学・高校と進んでいっても、『親父の跡を継ぎたい!』などと一度も考えたことはありませんでした。

 

最初のきっかけは、お金欲しさに始めた休日の手伝い。
最初のきっかけは、お金欲しさに始めた休日の手伝い。

 

そんな私でしたが、高校1年の冬から学校の休みの日だけ、父の仕事を手伝うようになりました。別に心変わりした訳でなく、単純に「お金欲しさ」です。

その頃は世の中バブル景気の時。建設業も大盛況でした。営業など全くしなくても、引っ切り無しに注文が入り、深夜作業など当たり前、日曜日など年に2日位しか休んでいませんでした。

塗装の仕事にも当然厳しい父でしたが、世の中バブル景気に浮かれる中、父は本当に仕事ばかりしていました。それだけ塗装の仕事に魅了されていたのかもしれません。

またそんな父を支える母も、本当に働き者でした。朝は誰より早く起きて、家族や職人さんのお弁当まで作り、昼間は男以上に現場仕事をこなし、夜は夕食や掃除洗濯の家事。

その時は私も当たり前の光景として両親の姿を見ていました。父も母も、普段からあまり口数の多い人ではありませんでしたが、そんな後ろ姿から、とても多くの大切なこと教えてくれていたのです。

今だからこそ、素直にそう思えるようになりましたが、

『なんでウチはペンキ屋何だろう?他の仕事だったらかっこよかったのに…』当時はこんな恨み節が頭をよぎるばかり。

そんな状況でしたが、「お金欲しさ」につられて、高校時代の日曜・夏冬休み……、時には遊びに出かける友達たちを羨みながら、ほぼすべての休みを父の仕事の手伝いに費やしました。

高校時代だけでも、父からみっちりと厳しい指導を受けられた御蔭で、高校を卒業するころには、簡単な現場なら一人で収められる位になれました。

思い返せばあのころに厳しく教えてくれた父の技術が、今の礎となっています。

それでもまだ、子供のころからの『跡は絶対に継がない!』の気持ちは強く、何か他の仕事を…と色々考えたものの、結結婚・父の死去、跡を継いだものの、甘えた姿で売り上げは激減。局やりたいことも見つからず、結局は『とりあえず、親父の仕事を手伝っておくか…』ということになったのです。

 

結婚・父の死去、跡を継いだものの、甘えた姿で売り上げは激減。
結婚・父の死去、跡を継いだものの、甘えた姿で売り上げは激減。

 

その後まもなく私も結婚・長女誕生。5年後には長男誕生。一家の主としての責任もあり、『塗装業』から逃げられなくなってきました。父が入退院を繰り返すようになったのも、このころからです。

昔からあまり体が丈夫で無かった父。有機溶剤の影響もあったのでしょう。退院した当時は調子が良くても、またすぐ悪くなる。こんな状態でした。

そんな闘病生活が数年続き、母の献身的な看病も報われず、平成11年7月7日、七夕の夜、父は57歳の若さで天国へと旅立ちました。

今更ながらに、何もしてあげられなかった自分を後悔する日々です。父の告別式には、本当に沢山の方々にご参列いただきました。人は亡くなった時にその人の評価がわかるといわれますが、まさにその通りでした。

その後、私が父の跡を継ぐ形で会社の代表になりました。しかし消極的に、流れで引き継いだだけでした。その時ですら、私は『いつかは塗装の仕事を辞めるんだ!』そう思ってました。

塗装の仕事はもともと積極的に始めたわけでない。でも父の地盤で何もしなくても食っていけるから、それでいいや。とりあえず勤め人になるより楽だし…。

本当に甘えていました。情けないほどに…。

こんな考えで仕事をしていましたので、仕事が減るのは当然。

会社の売り上げも、父が無くなって数年であっと今に激減。一時は1年間の売り上げが数百万円ということもありました。

ただ、父が亡くなって数年経っても、知っている人に会うたびに、

「お父さん残念だったね〜。真面目でいい人だったのに…」

「暑い中本当に一生懸命に塗ってくれて、いまでもまだピカピカだよ!」

「いい仕事をする人だったよね。また頼もうと思ってたのに…」

そんな言葉をいただくたびに、父が身を削って教えてくれたこと、残してくれた会社、母が文句一つ言わず、ただ黙々と裏で支えていた生活。そのすべてを食いつぶして生きている自分が、とても情けなく思えてきました。

このままではいけない!今の自分にできることは何か?

何かを成し遂げなくては、父に申し訳が立たない!こんな想いが芽生えた頃には、すでに30歳を超えていました。

 

自問自答の結果、たどり着いた3つの決意!
自問自答の結果、たどり着いた3つの決意!

 

自分に何ができるのか?何がしたいのか?思い、悩みました。

塗装職人として特に腕がいいわけではないし、他人より少しでも秀でている部分は何か?自問自答の毎日…その結果たどりついた結論、そして決意は3つ。

『自分たちの力で、多くのお客様の笑顔を創りたい!』

『お客様の笑顔で、社員たちにもやりがいを感じられる職場にしたい』

『将来は、塗装業を子供たちが憧れる職業にしたい!』

お客さまとの他愛もない会話、施工後のお客様の喜ぶ笑顔や喜びの声、

『もう工事終わっちゃったの?明日から寂しくなるわね…』

施工後になると、職人とお客様が親戚みたいな関係になっていたりします。

こんな瞬間が、私は当然のこと、それ以上に職人さんたちも、この仕事をしていて一番やりがいを感じる時、もっと頑張ろうと思える瞬間。もっともっと、沢山の出会いを増やしていきたいと思えてきました。

また、こんな楽しくやりがいのある職場にしていければ、将来ある子供たちからも、

『塗装屋さんって、ちょっとカッコイイかも!』そう思ってもらえる日が来るのではないかと信じています。

自分にできるとこ、やりたいことはこれだ!塗装職人としては特別な技術のない私でしたが、いろんな気配りやお客様への優しさだけは、誰にも負けない自信がありました。

お客様は塗装の技術だけを求めているわけではないはず。塗装と同時にもっと大きなものが必要なはずだ!これなら自分でも勝負できるのでは?と考えました。

 

想いだけでは伝わらない、苦い経験、明るい兆し!
想いだけでは伝わらない、苦い経験、明るい兆し!

 

そんなかっこいい想いを胸に秘めたところで、その想いをより多くのお客様に知っていただかなくては、話が始まりません。

手作りのチラシをまいてみたり、意を決して訪問販売のまねごとをしたみたり…当然結果は簡単に出ませんでしたが、苦悩の末明るい光が…。

初めて作成した「ホームページ」からの反響です。

当時、なけなしのお金をはたいて作成しました。『お客様に、塗り替えで幸せになってもらいたい!』そんな想いだけをこめたホームページ。

そんな想いが通じたのか、最初のお客様は弊社から車で10分くらいのご近所の方から。はじめてお問い合わせをいただいた時の感動と興奮は、今でも忘れられません。

 

『あなたには、これだけは伝えたい!』
『あなたには、これだけは伝えたい!

 

こんな紆余曲折があり、最近ようやく会社らしくなってきたかな?

そう思えるようになってきました。

そんな中、私たちが目指すものは、『日本で一番親切な塗装屋さん』

弊社は他社と比べても、特別な技術があるわけではありません。価格が特に安いわけでも高いわけでもありません。

特別スゴイ塗料や工法、ノウハウを持っているわけでもありません。

ただ、お客様に『最高の笑顔・感動』を提供できる自信はあります。施工スタッフの『(自称)日本一の笑顔』も自慢です。お客様への『親切』を考える力も、ちょっぴり自慢できます。

塗装のプロとしての技術・知識は当たり前のこと。そのうえで、仕上がり以外の『満足感』を追求することが、お客様へのサービスと信じております。

まだまだ発展途上の弊社ですが、『日本一の親切』を追求してまいりますので、皆様の温かいご支援・ご指導をいただけますよう、よろしくお願い申し上げます。